お財布忘れてフルマラソン

run

昨年11月にチロさんを失い、
翌12月に父親が倒れ、
バタバタとした年越しをして迎えた新年。
2月の誕生日をぼんやりと、
『今年はどんな年になるのだろう、
どんな年にしたいのだろう』などと薄ら思っていたある日。
隣駅へ買い物をしていた時に、
支払いの段階で、は!
財布を忘れたッ!!!
冷や汗ブッシャああああ〜〜〜で、
財布を取りに自宅に走って帰ったのですよ。
んが?
あたし、走れるじゃん?という事にその時気づき。
あれ、苦しくないじゃん?という発見が面白くて、
何を思ったか走り始めた2月の下旬から、
すっかりランニングにハマってしまいましたのよ。

もともとマラソンという競技は好きで、
特に感動したのはロサンゼルスオリンピックの時の、
スイスのアンデルセン選手の、
脱水症状でほとんど意識のない状態でゴールしたシーンを見て以来、
大きな大会のテレビ放送は見ていたのです。
が、マラソンは見るもので自分がやるものではない。
そう思っていましたよ、もちろん。
42.195Kmを走るなんて、未知だよ未知すぎるよねぇ〜?

大切な存在を失い、
まだまだ喪中最中であります。
そんな時に、ほぼ日の「今日のダーリン」の一説に出会いました。

「できること、と、できないことがある。
それを見分けることは、簡単そうでむつかしい。

できないとあきらめてしまってはいけない。
ということばには、とても強いものがある。
まるで人生の真実であるかのような説得力がある。
逆に これはできない というと、
つい、簡単そうに言うもんじゃないと叱られそうだ。
そいうわけで、経験の少ない人ほど、
なんでもできます、やってみせます、ってなことを、
澄んだ目で宣言したりすることになる。

できることと、できないこと。
ほんとうはまずは、
それは見分けることから始めなくてはならない。
決意を語ることは、その後にやることなのだ。
できるのだろうけれど、きわめて困難だ、という場合、
それを できることの方に分けるのか、
事実上の できないことの方に分けるのか。
そういうことを必死で考えることが、
ほんとうに大事な助走になる。
この助走を間違ってしまうと、スタートで事故る。」
(今日のダーリンより、一部抜粋)


ふと。
今年は、挑む年にしよう。
そう決意して、フルマラソンに挑戦する事にしました。

道具の手入れが必要のないスポーツが好き。
一人で黙々と何かをするのが好き。
ランニングはシューズ一つで、
好きな時に好きな場所へ行けるのが楽しい。
歩ければ走れる。
無理のないペースで、をメインに、
たまに負荷をかけてスピードアップしたり。
今日はあのコース、明日はあそこのコースだなどと、
コースを組み立てて。
先日は初めて皇居なんぞへ。
皇居はロードバイクで走った事はあったのですが、
ランニングでは初めて。
なるほど信号がなくて走りやすい。
そして、通勤の方々は決して好意を持たずすれ違っている印象でした。


今年は7月に10kmレースにチャレンジ。
来年はハーフとフルに挑戦する予定です。
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わたしのスタイル

あらかわーず

ぶるぶる震える冬の最中、
自転車通勤できんのかね?
などと弱気な毎日でしたが、
何とか雨と雪以外は乗り続け、越冬!

暖かくなり、
やる気復活であらかわーずしてます。

あらかわーず(荒川サイクリングロード)では、
本気乗りの方々がほとんどで、
頭のてっぺんからつま先までバッチリキメキメ、
自転車も中級クラス以上の走行が目立ちます。
最近は女性のライダーもチラホラ見かけるようになりました。


自転車は、
自分の足で移動できるのが楽しい。
その日の風の匂いや、
道ばたに咲いている野花を眺めたり、
すれ違うわんこさんや、
くつろぐ猫さん達に声をかけたり、
この道はここに出るのかぁという小さな発見のわくわく感。
これがあるから止められない。

私はビビリで、
車道をいつもビクビクしながら走っている。
スレスレに追い抜いていく車に、
ぎゃあああああああ〜
などと、絶叫しながら走っている。
こういう性格なのでなるべく大通りは避けて、
マイペースでの走行が好きだ。
私は、
サイクルジャージーに身を包み、走るような事はできないなぁ。
自分のファッション感の延長で、
走りたいなぁと、
本気乗りの人を見る度、思ってしまう。


それにしても、
自転車とサイクルジャージーとマナーのバランスの良い人って、
なかなか見かけませんね。
一度だけ、
地下鉄でRaphaの黒のジャージーに身を包み、
サイクルバッグもお揃いの黒で輪行していた白人男性3人組が、
すごく格好良かった。
それぞれ新宿三丁目と明治神宮で下車していきましたが、
身の熟しも、降車もスマートで惚れ惚れ。
声をかける勇気がなくて、チラ見で終わってしまったのだけれど
今でも声をかければ良かったと後悔している。

死、より学ぶ: 喪の仕事

  • Day:2015.04.09 22:33
  • Cat:日常
秋雑景


ずっと暖めていた想いなのですが、
なかなか文章に書き出す気力が湧かず、
冬眠しておりました。
みなさま、お元気ですか?
私は啓蟄を過ぎ、
桜の光景に圧倒され、
ようやくチロさんを失った現実を感じ始めております。



死は圧倒的な現実で、
それはすり替えることもできない。
喪失を受け止めるのに、
人は混乱し怒り悲しみ落ち込み、
否定し気づき力を回復し懐かしさに移行する。
わかってはいても
否定と現実感の喪失の中で冬を越しました。


1歳と7ヶ月で、
同胞の死を経験した大福。
亡骸を安置している部屋の前に、
しばらく立ち尻尾を下げたまま左右に振りながら
考えた後、
そろりそろりとチロさんの亡骸に近づきました。
クンクンクン。
匂いを嗅ぎ、
亡骸の周りを一周した途端、
ダッシュでリビングへ戻ってきて、
以後、
チロさんが骨壺に入って帰宅するまで
その部屋には近づきませんでした。
大福にとっては初めて一人称で感じる死、でした。
チロさんはお姉さんの役目として、
大福に死を学ばせてくれたのだと思います。
トリちゃんは、
結局チロさんとは最後まで仲良くならなかったけど、
チロさんの死を、
部屋の前で匂いで感じていました。
そして匂いで確認後は、
やはり荼毘に付すまで決して、
その部屋には近づきませんでした。


動物には動物なりの受け止め方があるのでしょうか。


私は、
すり替えや否定をしてみたものの、
やはり死は死であり、
チロさんの亡骸を前に、
地球の回転音が聞こえるんじゃないかという程、
お別れの夜を、シンと過ごして。
実は看取りの際に、
涙が出なかったのですが、
今になって撮っておいた動画や写真を見ると、
涙が零れるようになりました。
ようやく現実として、死と直面できるようになった。
そんな春を迎えています。
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